親睦会により開催された先週末の歓迎会は、進行がスムーズで且つ
アイデア溢れるコンテンツのお陰で楽しい時間を頂いた。
担当された二人には、改めて感謝申し上げたい。
朝礼でも親睦会でも進行がしっかりしていると会が締まり、
同じ会でもそこに意義が存在してくる。
これがダラダラ進んでは、何の為の会なのか、
何の為にやっているのか、
コミニケーションを交わしたぐらいで
終わってしまうのがオチで、単に形式になる。
そもそも形式には、明確な意義が存在し、
意義の意味を理解していなければならないのだが、
照れなのか、単に考えていなのかは分からないが、
流れの中で終わらせては、人間としての価値も下がる。
特に朝礼でのスピーチは、大切な対面訓練であり、
この部分のスキルを向上させるには
絶好の機会と捉えなければならない。
何を題材にし(発想)、どの様に伝え(工夫)、
反応を捉え(感性)、次に活かす(向上)。
常々言ってきているが、「考える事」が最も大事で、
これをしなくなったら全てに於いて、
「他力」で生きて行くしかない。
自分の考えがないのだから、自力では生きられない。
このような人間に創造的な仕事が出来る筈がない。
考え、行動し、そこに誤りがあったら反省し正せば良いのであって、
反省が足りないもしくは、ないから同じ失敗を繰り返す。
人は生まれながらに、得手不得手を持っている。
その中の得意な部分を一般には「能力」とも「資質」とも言うが、
これは持ってる人が偉いのではない。
持たせてくれた「親」が偉いのであって、
決して自分が偉い訳ではない。
逆にスポーツの中で良く見る光景だが、
子供が突出した実力で日本一いや世界一に
なったとしても、決して親が偉い訳ではない。
子供の才能を開花させた指導者であり、
厳しい練習に耐え、不得手を克服した子供が
偉いんであって、決して親ではない。
何か問答の様な例になったが、要は謙虚に生きるのが、
生きてこそが素直になれて、
誰からも愛されると言う事だと考える。
選手生命が長かったり、引退後もメディアや
他の業界で活躍出来る人間は例外なく、
人間性が出来ていて且つ謙虚さを持っている。
それは、スポーツのみならず、
我々の仕事も一緒だろうし、生きて行く上で非常に
大きなファクターになる部分だと考える。
私自身もこうして社長業に就かせて頂いているが、
それは社長が偉いんではなく、
皆が働いてくれるから、
そのような立場の役割が必要なだけの話。
先週の歓迎会で隣合わせたメンバーと
何の話からそうなったかは忘れたが、
人の成長は「資質=才能」なのか「環境」なのかの話になった。
メンバーは「環境」と言う。
私も若い頃は、先輩とこの話で朝方まで議論した事があるのだが、
先輩は「資質」だと言う。
当時の私は環境が人間を形成させ、
環境が人の成長に大きく影響すると頑なに考えていた。
高校までは青森のド田舎の漁師村で育ち、周りは高校卒業後には
家業を継ぐ為、高校生活は遊びが中心で進学率も数%程度。
厳しい漁師家業になる前の親心で遊んでも叱られない。
私の親も漁師であったが、雇われの為に漁師にはならず、
進学させてもらったのだが、高校時代の不勉強がたたり
後悔だけが先に立った。
ちょうどディズニーが誕生して2年目だったのだから、
かれこれ30年も前の話である。
東京で生まれ育ち、もっと勉強する仲間が居たり、
大学にも行っていたら人脈も出来、
就職も簡単に出来たんだろうと当時は、
環境を嘆いたいた自分が居た。
しかし、どんな環境であろうとやる気があれば
勉強も出来たであろうし、
たとえ学歴があったとしても、生きる資質が無ければ、
田舎へUターンしていたと思う。
今の状況は親からもらった才能があったからであって、
環境がそうさせた訳では決してない。
ある方が「真我:しんが」と言っていたが、
正に真(まこと)の我(自分)が人生を決めている。
この真我を授けてくれたのが、
親であり先祖なのであると考える。
こうして人生を鑑みると、「資質」だと考えられるようになった。
当時、29歳ぐらいだった先輩は、
若くから深く考えていたと改めて関心させられると同時に
自分の考えで論破しようとも押し付けも
しなかった事に更に関心させられる。
しかし、弁当は良く買いに行かされたのだが・・・
「資質」なのか「環境」なのかは、
それぞれが人生を鑑みて感じられる事であり、
生きている限りは、現在進行形である。
しかし、選択するのもスルーするのも全ては、
自分が決める事。
他に委ねた時点で「環境」と言うならば、
あまりにも人生を粗末に扱っている。
言える事は、人の成長は、自分自身の心が決める事で間違いない。
「自分の才能を私物化しない」
「天が授けた才能は世の為、人の為に使う事が使命である」
中村